オーガスト・カヴェルとゴサント・ブリッチェの2人は、ドイツ人社会で指導的な立場にありました。
2人はルーテル派の牧師で、それぞれの信徒を伴い、1838年から1841年までの間にオーストラリアへとやって来ました。
両者の間には意見の食い違いがあり、後にはオーストラリアのルーテル派教会が分裂する一因ともなりました。
しかし2人は共に、バロッサバレーのドイツ人入植地でドイツの伝統を守り抜いていました。
これまでも指摘されている様に、南オーストラリアのドイツ人は、労せずして富を築くことにその目的があったわけではなかったのです。
その目的は、「勤勉と倹約という、農民古来の徳を実践できる入植地を探し、利益を上げる手段として一時的に土地を利用するのではなく、土地は将来にわたる神からの信託と考え、次の世代のために、時間をかけて着実に農場と家とを築いてゆくこと」でした。
土地に関するドイツ人の保守性は非常に特徴的なものではありますが、特に変わった特性であったわけではありません。
新しいスタートを切りたいと願う気持と、昔の生活の美徳を保とうという気持の間の心の揺れは、これまでもどの植民地でも見受けられました。
新任の長老派教会牧師としてホバートにやって来たスコットランド人、ジョン・リリーは1837年、就任にあたっての説教の中で、「教会、誠実な信徒、教区の学校をオーストラリアに移転させ、生まれは貧しくとも、気高い心を持つ人をオーストラリアに送ってほしい。」と求めました。
アイルランドと同様、人口が増加し、地方経済が不安定な状態にあったため、たくさんのドイツ人農民が故国を去りました。
年老いたルーテル派教会所属の人々の多くは、宗教的弾圧から逃れるために移民の道を選んだのです。
移民を勧め、渡航に関する障害を除くにあたり、血縁関係の果たす役割が大きかったという点でも、ドイツ人居留区とアイルランド居留区には非常にたくさんの共通点が見られました。
1847年から51年にかけて、4、000人のドイツ移民が南オーストラリアにやって来ました。
そのほとんどは、移住に際して何らかの援助を受けていたのです。
しかし、大部分の人は英語ができなかったため、すでに入植している親類縁者に、土地に関する知識を求めました。
都会出身のドイツ人は、たいていアデレードでの生活にうまく溶け込むことができましたが、地方出身者は、同じ地方から来た仲間と共に、農村部に固まる傾向がありました。
一たびこの様な農村社会が形成されると、人々は大地に根をおろし、独自の慣習を頑固なまでに守る生活を営んだのです。
南オーストラリア創設者のねらいは、この様な特権を廃し、非国教主義者の天国となるべき、新たな植民地を創設することでした。
入植を促進するため、政府の保護の下に結成された南オーストラリア会社の理事、ジョージ・フアイブ・アンガスには以下の目的がありました。
「まず第1に、私の最大のねらいは、大英帝国の敬慶な非国教徒に安住の地を与え、神の御前で良心を誓い、いかなる法的資格も失なうことなくして、市民として又信徒としての義務を果たせる様にすることである。
南オーストラリアは、「非国教徒のパラダイス」として、またオーストラリアで初めて英語圏以外からの移民を大量に受け入れたことで有名になった。
1830年代後半頃からは、ドイツ北西部から、そして南部からも、新しい植民地の南オーストラリアを目ざして移民がやって来るようになった」。
このウェークフィールド計画は、ある程度の功を奏しただけにとどまりました。
初期に、南オーストラリアに入植した人々の4分の3は、わずかな財産しか持たず、補助金を受けた移民であったとはいえ、地主になり得た者はほとんどいなかったのです。
1870年から1871年に至っては、南オーストラリアの農地のほとんどが、資本を持った入植者の所有となっていました。
他の地方と同様、南オーストラリアでも、補助金を受けた移民のほとんどは、都会及びその近郊にとどまり、奥地へ入って行こうとはしませんでした。
南オーストラリア植民地を創設した背景には、宗教的自由を勝ち得たいという、別の期待もありました。
19世紀英国で、宣戦の布告なくして戦われた戦争の中でも、宗教戦争は最も長びく戦いの1つでした。
1829年までには、英国国教会に属さぬプロテスタント、ローマカトリック教徒にも、公職に就く権利を初めとする市民権が認められる様になっていました。
1832年に制定された改輩法により非国教主義が勢力を誇っていた都市部に居住する多数の人々に対しても、市民権が与えられる様になりました。
英国国教会は、依然として10分の1の教区税を徴集する権利を持ち、教会学校に対する政府の許認可権に関して優位な立場にあるなど、法律で認められた公式教会としての地位を保っていました。
土地の価格と分割の規模に関して生じた論争は、様々な問題をかかえ、19世紀を通じて残ることとなりました。
1830年代半ば、南オーストラリアに新しい植民地を設立することでこの問題の決着が計られるかに見えました。
「組織的植民」という概念は、エドワード・ギボン・ウェークフィールド(英国の歴史家)の構想と結びつきました。
ウェークフィールドは未成年者との間に結婚問題を起こしたために投獄され、その間の時間を利用して組織的な入植に関する構想を練り、やがてこの構想は植民地省から高い評価をもって迎えられることになります。
彼の計画の基礎となったのは、入植地では土地と労働者の均衡が保たれねばならないという考え方です。
土地の価格はある一定の高さに保ちます。
その差益は、移民補助金として使うのです。
この計画は、金を貯え自分の土地を持ちたいと願う移民の中から労働者を集めることを目的としました。
計画が首尾よく運べば、上流階級の投資家や「貧困者」はもちろん、その地位の向上を願う弱小な資産家を英国から呼び寄せるための起爆剤となる可能性があったのです。